江戸時代の伝説の数学者・吉田光由が細川忠利によって熊本に招かれていたことを示す一次史料を発見

【概要説明】

 熊本大学永青文庫研究センター(後藤典子特別研究員)は、江戸時代初期の寛永4年(1627)に初版が出版されて瞬く間に江戸時代を通してのベストセラーとなった和算書『塵劫記(じんこうき)』の著者吉田光由(よしだみつよし)が、寛永13年(1636)と寛永14年(1637)に熊本に滞在していたことを示す一次史料を発見しました。光由を熊本に招聘したのは、熊本藩細川家の初代藩主細川忠利です。

 『塵劫記』は、そろばんの教科書といわれますが、一般の日常生活や農業、商業、工業などあらゆる分野で必要な算術を取り上げており、専門家から一般民衆にまで広く愛されました。その著者で“算者”である吉田光由は、京都での金融業や朱印船貿易で多くの富を得て河川改修や運河の開削などの土木事業に貢献した角倉了以(すみくらりょうい)の角倉家の一族で、光由自身も京都の菖蒲谷隧道(しょうぶたにずいどう)を手掛けています。

 当時の熊本は、熊本城普請(土木工事)、肥後国内の河川・海岸の堤防普請、大規模な耕地開発に追われる時代にありました。算術の体系や土木水利技術の最先端の知識を保持する吉田光由が、そうした時代の熊本に招聘された事実を示す史料の発見は、江戸初期の地方社会の情勢を解明する重要な糸口となるものです。

 なお、本史料の発見は、数学者の上野健爾氏(京都大学名誉教授)からの依頼に基づく調査の成果です。

【本史料発見の意義】

. これまで、後世の編纂物や二次史料によって、数学者吉田光由は熊本藩に召し抱えられていた(仕官した)といわれてきました。しかし、その史実を裏付ける一次史料は確認されていませんでした。今回の発見により、これまでいわば伝説とされてきた吉田光由の熊本来訪・滞在が事実であること、また細川家に仕官したのではなく、「客人」として招かれていたという史実が明らかになりました。

. 近世初期の熊本では、熊本城普請、河川・海岸の堤防普請、灌漑用水路の普請、耕地開発、さらに寛永17年(1640)には熊本城と港町・川尻とをつなぐ川(運河)の開削普請にも取り組んでいます。そうした大規模な土木工事に追われていた頃に、吉田光由によって土木工事に必要不可欠な算術の体系と、京都における最先端の水利土木技術がもたらされたことの歴史的意義は大きく、地方社会を変貌させた治水や農地開発などの近世初期の大規模インフラ整備が、中央と地方との技術的・文化的交流のもとで推進されていたことを裏付ける発見だといえます。

 

【公開情報】

 これらの史料について、一般社団法人日本数学会『数学通信』第25-4号(20212月号)に、後藤典子「吉田光由の肥後下向と細川忠利」が掲載されています。

https://www.mathsoc.jp/publications/tushin/backnumber/index25-4.html

*永青文庫研究センター

 熊本大学附属図書館には、「永青文庫細川家資料」(約 58,000 点)や細川家の筆頭家老の文書「松井家文書」(約 36,000 点)の他、家臣家や庄屋層の文書群計 10 万点あまりが寄託・所蔵されており、永青文庫研究センターではこれらの資料群について調査分析を行っています。

【詳細】 プレスリリース本文(PDF246KB)




お問い合わせ
熊本大学永青文庫研究センター
担当:(センター長)稲葉 継陽
   (特別研究員)後藤 典子
電話:096-342-2304
E-mail:eiseiken※kumamoto-u.ac.jp
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