細川忠興による駿府城普請にかかる掟書を発見

【ポイント】

  • 江戸時代初期の国家事業である駿府城普請(修築)にあたり、派遣された小倉藩主細川家の家臣が守るべき掟を定めた文書が、熊本大学所蔵の松井家文書より発見されました。
  • 掟は十三箇条からなり、当主の細川忠興から現地担当家臣に対し普請場運営の全権を委任するとともに、他大名家の家中ともめ事を防止するための規約が定められています。
  • 駿府城普請掟の原本としては毛利輝元が制定した毛利家文書に次ぐ発見です。

 

【概要説明】

 熊本大学永青文庫研究センターの稲葉継陽教授らが、駿府城普請の際に細川家の家臣が守るべき掟を定めた文書「細川忠興駿河御普請中掟」を発見、調査しました。

 関ヶ原合戦からわずか7年余り後の慶長12年(1607)、江戸幕府は小倉藩主細川家を含む諸大名を国家プロジェクトである駿府城普請に動員しました。そのとき、細川家当主の忠興が細川家の現場責任者4名に対して、駿府の普請場及び道中で守るべき規律を13箇条にわたって書き上げ、交付したのが本文書になります。檀紙を2枚張り合わせた様式が細川家当主の掟書にふさわしい体裁を示しています。

 駿府城普請掟の原本としては毛利輝元制定のもの(毛利家文書)が知られ、本文書の発見はそれに次ぐものですが、内容は本文書の方が格段に詳細かつ具体的で、普請場における下級家臣や夫役人の生態から幕府の政策の歴史的意味までを示してくれます。

 

【本史料発見の意義】

 本文書発見の学術的意義は、この時期に相次いだ幕府による城普請への諸大名動員の政治史的意味を考察する上で多くの情報を提供してくれる点にあります。

 これまで駿府城普請の掟書は、原本としては毛利輝元が制定したもの、後世の写しとしては前田利長制定のものが知られるのみでしたが、本史料が発見され、三家の掟の趣旨が似通っている事実が確認されました。これは、各大名家に幕府側(本史料第一条にみえる本多正純ら)から普請場法度の大枠が示され、それに基づいて諸大名家が当主名義の掟を定め、それぞれの家中に徹底しようとしたことを意味しています。

 このわずか7年前の関ヶ原合戦では、細川家と毛利家はそれぞれ東軍・西軍の主力として敵の関係にありました。一つ間違えば旧恨に火が付き、大きな紛争に発展しかねません。数年前に敵味方に分かれて死闘を演じた諸大名家を敢えて同じ城普請に動員して規律化し、共同作業の実績を目に見える形で積ませようとする幕府の意図はなにか。大名家どうしの紛争を徹底的に防止しようとする本史料の詳細な内容は、それが諸家中の関係を融和して内戦の火種を除去すること、つまり「天下泰平」確立のための戦略であったことを物語っています。

 なお、本史料の画像は2020年11月4日より熊本大学附属図書館ホームページ特設サイトにて公開されています。

URL:https://www.lib.kumamoto-u.ac.jp/about/events/onlinekichoshiryo

詳細 プレスリリース本文(PDF419KB)





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