細川家最後のキリシタン重臣である加賀山隼人と小笠原玄也の殉教に関する一次史料を発見

【ポイント】

  • 細川家のキリシタン重臣だったディエゴ加賀山隼人の処刑と、小笠原玄也の追放を小倉藩主細川忠興が命じたことを示す書状を発見しました。
  • 両名の処分・殉教については、これまではイエズス会宣教師のローマへの報告書でしか知ることができず、今回、処分を下した細川家の組織内で作成された一次史料が発見されたことによって、確定的な事実が知られることになりました。

【概要説明】

 熊本大学永青文庫研究センターの稲葉継陽教授らは、細川家最後のキリシタン重臣であり、殉教者として名高いディエゴ加賀山隼人(はやと)の処刑と、かつて細川ガラシャの最期に付き添い職に殉じた小笠原少斎(しょうさい)の子息小笠原玄也(げんや)(隼人の娘婿)の追放を小倉藩主細川忠興が命じたことを示す、元和5年(161999日付の書状を発見しました。この弾圧事件を直接示す一次史料の発見は初めてです。

 本書状は、「元和の大殉教」期における大名家キリシタン重臣に対する弾圧の実態を生々しく語る点で、日本キリスト教史における象徴的文書といえます。

 また本書状の記述を、同時期のイエズス会宣教師からローマへの報告書の内容と比較すると、当時の宣教師たちの著述の信憑性と限界とが明確になります。

【意義】

1、加賀山隼人と小笠原玄也の処分・殉教について、これまではイエズス会宣教師のローマへの報告書でしか知ることができず、情報の不確実性を排除できませんでした。しかしこの度、処分を下した細川家の組織内で作成された一次史料が発見されたことによって、確定的な事実が知られることになりました。

 二人の処分は、キリシタン弾圧史上最大の事件の一つである「元和の京都大殉教(1619年)」を実際に目の当たりにして危機感を抱いた忠興が、その直後に国元で断行したものと考えられ、有力大名家中のキリシタン家老・重臣への衝撃的かつ決定的な弾圧事件でした。これ以降、大名の組織内においてもキリシタン武士の存在は決して許容されなくなったのです。領主階級内部の非キリシタン化の完了を象徴する一次史料であり、日本キリシタン史にとって大きな発見だといえます。

2、本書状の内容は、①と③が当時のイエズス会宣教師らがローマに送った報告書の内容とほぼ一致しますが、②は史料上初めて知られる内容です。関ヶ原緒戦でガラシャを石田方の人質に取らせず介錯し、自らも職に殉じた小笠原少斎の功績を、細川忠興がたいへん高く評価していた事実を明確に示しています。

 なお、小笠原玄也一家は細川家中から排斥されたまま信仰を貫き、最終的に寛永12年(163512月に熊本で成敗されています。

3、小笠原玄也の小倉からの追放について、当時のイエズス会宣教師の報告には、「無名の農夫や領内の無法者たちがいるところへ追放され」、「下層の職人や貧しい農民の中に混じり、最下級の奴隷か被差別民の一人でもあるかのよう」な境遇に置かれたと述べられています。しかし本文書によると、玄也一家は3人の専属担当役人(本書状の差出人)と、逼塞先の地域の「惣庄屋」や「頭百姓」といった村役人、つまり細川家の正式な藩政機構のうちで管理されていた事実が知られます。弾圧期日本のイエズス会宣教師らのローマへの報告書には、事実と誇張の両面が含まれていることを具体的に示す一次史料としても、貴重です。

 

【公開情報】

 本文書は、20212月に刊行される永青文庫研究センター編『永青文庫叢書 細川家文書 地域行政編』(吉川弘文館)に収録されます。

 

*永青文庫研究センター

 熊本大学附属図書館には、「永青文庫細川家資料」(約 58,000 点)や細川家の筆頭家老の文書「松井家文書」(約 36,000 点)の他、家臣家や庄屋層の文書群計 10 万点あまりが寄託・所蔵されており、永青文庫研究センターではこれらの資料群について調査分析を行っています。

【詳細】 プレスリリース本文(PDF262KB)




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