学生の向こうにいる患者さまのため看護師だからこその「ケア」を探求する

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看護の視点から「ケアの倫理」を考える

健児くん(以下◆):先生が研究されているのはどんな分野ですか?
永田:私は、看護学では基礎看護学に分類される看護哲学・倫理の研究者です。それが何か、どうあるべきかという問いは、学問であるなら存在するべき研究領域なのです。看護哲学において“それが何であるか”が明らかになってこそ、“それがどうあるべきか”という看護倫理で教授する内容も明らかになります。看護学は、米国で理論化が開始されて70年余りの若い学問なので、「看護とは何か」の理論的な説明が尽くされたとはいえません。看護哲学の研究者には、既存の理論や権威にとらわれず、疑い、自ら根源的に論究するという哲学的姿勢が求められます。でも実践と乖離した理論では意味がありませんね。海外ではすでに『Nursing Philosophy』という雑誌や学会も存在するのですよ。

◆:具体的な研究内容は?
永田:例えばケア、それは看護の専売特許のようですが、その言葉には人と人との関係性において相手の文脈や状況に考慮した関わりや対応をすべし、とでもいうようなケアの倫理的指針が含意されています。そのケアが注目されたのは、道徳発達心理学者C.ギリガンが『もう一つの声』(1982年)で初めて「ケアの倫理」という言葉を述べたことが契機です。そもそも人のふるまいの正邪・善悪を判断する根幹には、社会的関係において実現されるべき「正義」(の倫理的・価値的思想)があります。その「正義」を説明する正義論には、アリストテレスまで遡る系譜があります。倫理学では、自分の判断がいかに正しいかを筋道立てて論理的に述べるよう求められますが、“ケアする人”は、時に目の前の“ケアされる人”の状況に巻き込まれ、その時々で正しさの基準が変わったり、相手の意思に反してよかれと押しつけたりするおそれがあるので、倫理学ではケアが示唆する倫理性が長く否定的に捉えられてきたのです。既存の主流な倫理理論には欠けていた視点を提供したケア論は、学際的なケア対正義論争まで発展します。熱烈なケア論者だった私は、修論をまとめる中でその論争を知り、難解な正義論や西洋思想史をかじり、看護にも正義論の考え方が生きていることに気づかされ、ケアに倫理的根拠を置く看護独自の倫理理論を構築しようとする看護の潮流に懐疑的になりました。
今は、2年前に看護倫理を授業する機会を得て、適切だと思うテキストに出会えず、いつ(どの学年で)、何を(教授内容の同定)、誰と(倫理学者との協働の可能性)、どのように教えるか(教育の方法論)を模索中です。医療倫理において「看護倫理で学ばせるべきもの」にとても興味があります。
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看護師として勤務しながら大学院で学ぶ

◆:先生は、看護師をしながら社会人として大学院に行かれていたのですね。
永田:看護師として熊本大学医学部附属病院に勤めていました。学ぶことが好きで放送大学で学んだりしていたのですが、 そんなとき、社会人が働きながら夜間に学べる大学院が熊本大学大学院法学研究科にできたんです。 当時は手術室に勤務していて、インフォームド・コンセントとはどんなものなのか、考えるようになっていました。そこで、インフォームド・コンセントについて学びたいと、法哲学領域を受験したんです。面接のとき、先生にびっくりされましたね。「どうしてここに?」って。「私がやりたいことに近いと思ってきた」と答えましたが、とても怖い顔をされていたように見えて、落ちたな、と思っていました。だから、通えることがわかったときは、とてもうれしかったです。病院の勤務が終わって、大急ぎで自転車に乗って、附属病院から子飼橋を渡って黒髪の法学部に通いました。「まずはコーヒーでも」って、授業の前にいれてもらうコーヒーが美味しかったですね~。
◆:働きながらの大学院生活はどうだったのですか?
永田:修士の途中で教員となり、臨床家から研究者へ脱皮するプロセスでは、言葉をつむぐことに苦労しました。ゼミでは「看護はどんな仕事?」と問われ、自分の仕事の魅力・本質・専門性・価値を言葉で説明できないことに愕然としました。臨床では「看護っていい仕事よね」「そうね」でわかり合えますので、言葉で説明はしないし、立ち止まって考えるいとまもありません。
修論の初回原稿に「これは論文ではない」との指摘に、ハウツー本を読みあさりました。それでも推敲の度に「説明が足りません」というチェックが。文系の論文は言葉が命です。自分の主張・立ち位置を明確にして、あるときは文献を自分の論理の支えにし、あるときは文献と討議をしながら読み手を説得しなければなりません。師匠とはたくさん対話をしました。「先生、考えてきました」「聞きましょう」と。いつも「うーん、私にはまだわかりませんね」とおっしゃいましたけれど。ついに「あなた、文献にご自分の答えがあると思っていませんか」と言われ言葉がなかったです。自分の主張は自力で考えない限り、論文で結論に至るまでのストーリーが組み立てられません。師匠が、博論の枠組み(目次)をなぜ何度も提出させるのか、という疑問は後に解けたわけです。
博士課程では、一本の論文を3年以上かけて投稿し、研究の厳しさと喜びを学びました。英国で賞を受賞した論文と、それを批判した論文、その批判への反論という3つの論文を訳し、両者の議論に参戦して『ケアの倫理はありうるか』を学会誌に投稿しました。いつ投稿させていただけるのだろうと何度も思いましたが、日本医学哲学・倫理学会の多くの先生方が私の論文に興味を示してくださった時、研究者としての冥利を感じました。文系大学院で訓練を受けたことが、私の研究者としての強みになっていると思います。
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生活の中に、ケアの本質がある

◆:先生の基礎看護の授業はとても特徴があるそうですね。
永田:15年ほど続けている一年生の授業では、髪や身体を洗う、移動をするなどの生活支援の技術を教えます。哲学や倫理とは程遠いものですが、私は学生さんの向こうに患者さまがいらっしゃると考えています。今の学生は、生活者としての力が少し衰えています。例えば「マスター10」というレポートは、雑巾を絞る、洗濯物をきれいに干す、リンゴを美味しそうにむく、毎日一万歩、毎日朝食を作って食べる、快便日記、断捨離などの実践報告です。雑巾の絞り方をネットで調べてくる学生、きれいにむけるまでの経過を写真で記録してくる学生、ウォーキングで霜焼けができなかったという学生、朝食を食べるようになって授業に集中できるようになったという体感や母親への感謝が聞かれます。学生たちはレポートに取り組むなかで、指示への適切な応答、計画的な行動、時間や約束を守る、ホウ・レン・ソウなどの看護師としての基本的資質を獲得していきます。この授業は、患者との信頼関係構築への第一関門というような位置づけでもあるのです。患者さまのセルフケアを促す支援につながればうれしいです。

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学生の向こうにいる患者さまのために

◆:学生の皆さんへメッセージをお願いします。
永田:看護師は、相手に心からの関心を寄せて、専門的な知識や技術を活かしながら、生活に目をむけて人が健康によく生きるということに貢献しなければなりません。臨床では、時間や約束を守れなければ、患者の生死に関わることもあります。相手のことを考慮しない看護ケアは、よい看護にはなり得ません。そのよい看護を抽象的に説明した看護理論は、実践を導く理論でなければなりません。臨床で理論を検証することも大切です。
最近の看護倫理のキーワードとして「幸福」が着目されています。患者さまに「幸福な体験をしてもらう」、そのために看護師自身も幸福であることが必要なのだそうです。それはすなわち、看護を構成する要素に「幸福」も入れるべきではないかという提言なのです。これまで看護学では、「人間」「健康」「環境」「看護」という4つの要素で看護を説明(理論化)してきましたが、4つの要素で十分なのでしょうか?看護を「看護」で説明するのは同語反復として哲学では批判されますが、「看護」を「ケア」に置き換えますか?また、理論化の過程では要素と要素の関係性や要素の重みを説明しなくてはなりませんが、「生活」は「人間」の下位概念に置きましょうか?
看護学の発展には、個々の看護師が、看護とは何かを自ら論究し、よい看護であるかを測る“ものさし”をもち、抽象的な理論と実践の間の上り下りをしなければなりません。これからの人には、優れた臨床家となって看護の理論化にも貢献してほしいです。

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(2018年2月8日掲載)
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